俳優・歌手・タレント・司会者と幅広いジャンルで活躍を続けていた西田敏行さん。
俳優としても歌手としても数々の代表作を残してきました。
今回は西田敏行さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】西田敏行は若い頃から変わらない?
10代(1957年~1967年)
引用元:PRTIMES
福島県郡山市出身の西田敏行さんは俳優を志し、中学卒業とともに上京し、明治大学付属中野高校、明治大学農学部に進学しました。
大学入学と同時に日本演技アカデミー夜間部に入りますが、日本演技アカデミーと掛け持ちしているうちに熱が入り、大学を一年で中退してアカデミーの昼間部に通うようになります。
アカデミー卒業後はアルバイトをしながら生活をし、1967年(当時19歳)に「渥美清の泣いてたまるか」でテレビ俳優デビューを果たしました。
上の画像は1967年の俳優デビュー作、『渥美清の泣いてたまるか』に出演した時のものです。10代からお顔がお変わりないことがわかりますよね!
西田敏行さんは、どんな幼少期を過ごしてきたのかな?
幼い頃に父を亡くし、母が再婚したのちは伯母(母の姉)に引き取られたんだって!親子関係は悪くなかったみたいだけど、生活は厳しかったみたい。
20代(1967~1977年)
引用元:BS11
西田敏行さんは1968年(当時20歳)に青年座俳優養成所に入り、本格的に役者への道を歩み始めます。
1970年(当時22歳)に初舞台『情痴』に出演し、少年Aを演じました。上演後、「テアトロ」に「西田敏行という俳優が面白い」と書かれ、その記事を読んだ師匠の中台祥浩は「おもしろい役者ということをお前の命題にしてやっていけ」と西田さんにいったそうです。
それを受け、西田さんは過去のインタビューで「うまい役者よりおもしろい役者になりたい」と語っています。1971年(当時23歳)には舞台『写楽考』に出演し、見事主役に抜擢され大器の片鱗を見せました。
上の画像は1976年(当時28歳)に放送のドラマ『いごこち満点』に出演した時のものです。やっぱり風貌からしてコミカルな様子で演じている姿が想像できますよね。これが西田敏行さんオンリーワンの演技ということなのでしょう。
引用元:X『白い滑走路』のハイジャック犯と『三男三女婿一匹』の泉ピン子の夫が私の中の西田敏行ファウンデーション pic.twitter.com/UhBCgOxIak
— ナンシー・トルネアータ (@kitty__keiko) October 17, 2024
引用元:TOEI VIDEO ONLINE SHOP
西田さんは『いごこち満点』に続き、TBS系ドラマ「三男三女婿一匹」に出演し、世間の注目を集めていきます。愛嬌のある顔立ちや体型でどんどん人気を獲得していきました。上のXの投稿画像で左側の家族集合の様子がその時のものです。
また1977年(当時29歳)にはテレビ朝日系ドラマ「特捜最前線」に出演します。
東北出身の巡査部長の役柄でしたが、当時西田さんは超多忙につき、他の刑事よりも出演回数が少なく、プロデューサーがお願いをして所々出演する形式でした。人気絶頂で、寝る間もない時代だったのでしょうね。それでも重要な役どころでレギュラーだったので、西田さんの存在感の凄さが分かるエピソードです。
上の画像は1977年「特捜最前線」に出演した時のDVDジャケット写真です。中央に写っているところからも重要な役どころであったことが伺えますね。
西田敏行さんは結婚していたけれど、いつ結婚したのかな?
西田敏行さんは、1974年27歳の時に4歳年下の奥様と結婚しているよ!
劇団員時代に出会い、奥様も女優を目指していたみたいだけど、西田さんとの交際をきっかけに女優の夢を諦め、西田さんのサポートに徹したみたい!
30代(1977年~1987年)
引用元:文春オンライン
引用元:スポニチ、Amazon、NHK
30代になり、西田さんは続々と話題作、主演作に出演するようになります。1978年(当時30歳)には後にシリーズ化された「西遊記」に重要な役どころ猪八戒役、1980年(当時32歳)には「池中玄太80キロ」、「」で主役を務めました。1981年にはNHK大河ドラマ「おんな太閤記」で準主役に抜擢され、目覚ましい活躍が続きました。
この時代の西田さんは、放送同時期に複数のドラマ出演が相次いでいて、もの凄い忙しい時期だったことは間違いありません。池中玄太80キロ出演=港町純情シネマ(TBS)にも同時期出演、サンキュー先生出演=一人来い二人来いみんな来い(TBS)にも同時出演などです。
またドラマ「池中玄太80キロ」は、パートⅡ、パートⅢに加え、スペシャル放送が2回されるなど、シリーズものとしても人気を博し、西田さんのトップ俳優の位置づけを確固たるものにした作品の一つと言えます。
上の画像は「西遊記」「池中玄太80キロ」「サンキュー先生」「おんな太閤記」に出演した時のものです。どの作品も印象が強烈に残っている人も多いのではないでしょうか。
引用元:Amazon
西田さんは俳優業だけでなく、歌手活動も精力的に行っていました。
1981年(当時33歳)に発売したシングル「もしもピアノが弾けたなら」は西田さんが主役を務めた『池中玄太80キロ』第2シリーズの主題歌にも抜擢され、大ヒットとなりました。様々な方にもカバーされていて西田さんの代表曲のうちのひとつですね。
また、同年にはNHK紅白歌合戦にも出場しました。俳優、歌手活動に加え、飾り気のないキャラクターや巧みなバラエティ力がバラエティ番組やコント番組でも注目され、マルチな才能を発揮していきました。
上の画像は1981年に発売した『もしもピアノが弾けたなら』のジャケット写真です。少しふくよかになった印象を受けますね!
CDジャケット写真の西田さん、だいぶふくよかになったよね。何か変化があったのかな?
それは、ちょうど『池中玄太80キロ』に出演していたときで、実際に81キロあったみたいだよ!役作りの一環だったのかもしれないね。
40代以上(1987年~)
引用元:シネマクラシックス
1988年(当時40歳)には後に大人気シリーズとなった映画「釣りバカ日誌」に出演しました。「釣りバカ日誌」は特別編2本を入れると22作、期間約22年に及ぶ長期シリーズとなり、西田さんの代表作の一つとなりました。西田さんは浜田伝助役を演じ、《ハマちゃん》の愛称で親しまれました。
2013年釣りバカ日誌で名コンビであった三國連太郎さんが死去した際、西田さんは
「俳優としての三國連太郎といつも対峙(たいじ)していた。いつも新たなチャレンジをされて、とんでもない球を投げてくるときもあった。『釣りバカ~』でも三國さん自身は釣りを楽しむことなく、“釣り好きなスーさん”を演じることを楽しんでいた」
と語り、故人を偲びます。この名コンビは永遠に語り継がれることになるでしょう。
このドラマをきっかけに西田さんは普段から「《ハマちゃん》と呼ばれることも多い」とお話しされています。公私同体とでも言うのでしょうか。上の画像は1988年の「釣りバカ日誌」1作目の時のものです。この姿は世間の皆さんも馴染みがある方も多いですよね。
引用元:sankei、スポニチ
西田さんのさらなる活躍は続き、2000年(当時53歳)には『ネイチァリングスペシャル「風雪の聖地アンデス縦断4000キロ」- 西田敏行53歳 米大陸最高峰アコンカグアに挑む -」』の収録のため、南米最高峰アコンカグア登山に挑戦します。
上の画像が登山時のアコンカグアの5,000m付近でメンバーとの写真に収まる西田さんです。この時は、残念ながら「頂上まであと高さ100メートルというところで断念して、やむなく下山した」そうですが、5大大陸の最高峰の山に挑戦する姿勢は多くの世の中の人に刺激を与えたことは間違いありません。
そして、2001年(当時53歳)には朝日放送テレビ「探偵!ナイトスクープ」の2代目局長に起用され、約19年にわたりレギュラー出演をします。番組を降板する際、西田さんは、
「上岡(龍太郎)局長のときに見てたテイストっていうのは、大阪人のエスプリを根底にして、深い時間に大人のおっちゃんがチビチビやりながら楽しんで、乾いた笑いを求めてた。
そのテイストを大事にしようと思ってて、何かの拍子に泣いちゃった。それからどんどん感動巨編的な依頼が増えて、ちょっと初期のころのコンセプトと乖離してる気もした。
乾いた笑いも、ちょっと濡れた感動も一緒になるような番組で令和は進んでいってほしいと思い、私が辞すること、そういうことが可能になるのかなと思った」
引用元:東スポ
と発言され、番組のコンセプトに対して、身を引くことで変化を求めたと言えます。これも番組に対する深い愛情の現れですよね。
引用元:テレビ朝日
そして、2012年(当時64歳)に放送開始が開始し、シリーズ化した「ドクターX」に出演し、第2期(2013年放送)から2024年12月に上映開始の「劇場版ドクターX ファイナル」まで12年にわたり出演しました。
上の画像は2016年(当時68歳)の『ドクターX』に出演した時のものです。帝都医科大学付属病院の外科統括部長という役柄もあり、とても貫禄がありますね。
俳優・歌手・タレント・司会者とマルチに大活躍された西田さんですが、2024年10月17日、衝撃のニュースがありました。自宅のベッドで冷たくなっているところを付き人に発見され、死亡が確認されました。数日前には、映画『劇場版ドクターX』の完成報告会見に出席し、亡くなった当日も仕事を入れていたといいます。
死因は虚血性心疾患とされ、芸能界や世間から悲しみの声がたくさんありました。いまだに信じがたい出来事です。
虚血性心疾患とは
心臓の筋肉(心筋)に血液を送る冠動脈が狭まったり閉塞したりして、心筋に血液が十分に行き渡らない状態
西田敏行さんは、晩年病気がちなイメージがあるけど、実際どうだったのかな?
50代を過ぎたくらいから頸椎性脊髄症を患い入院したり、心筋梗塞で倒れたり、胆嚢炎を発症したり、入退院を繰り返しながら活動していたみたいだよ。
西田敏行さんが所属するオフィスコバックには他に誰が所属してる?
引用元:オフィスコバック
西田敏行さんの所属するオフィスコバックには、猪野学さんが所属しています。
【画像】西田敏行が結婚した妻との馴れ初めは?子供はいる?
西田敏行が結婚した妻との馴れ初めは?
引用元:YouTube、女性自身
1971年、西田敏行さん24歳の時に、所属していた劇団「青年座」に研究生として入ってきた寿子さん。西田敏行さんは4歳下の寿子さんに一目惚れだったそうです。そんな寿子さんも、元々劇団で活躍していた西田敏行さんのファンだったようです。
それから、西田敏行さんが猛アプローチをして交際に発展。
交際が始まって数か月後には、寿子さんの住んでいた4畳半のアパートに歯ブラシや枕等、私物を少しずつ持ち込むようになり、同棲が始まったそうです。
そして、1974年8月。西田敏行さん27歳の時に寿子さんと結婚。寿子さんは、同棲を始めた頃をきっかけに劇団を辞めており、複数のアルバイトを掛け持ちしたり、西田敏行さんを献身的に支えたそうです。
引用元:クランクイン
西田敏行さんは数々の作品に携わってきました。中でも1978年に大ヒットしたドラマ、「西遊記」。特殊メイクで豚の猪八戒役を熱演。コミカルで愛らしい演技で人気者になったと言われています。
また、コミカルな演技も好評でしたが、1988年には「敦煌」という映画で初の主演男優賞を受賞!本格的俳優としても知名度があがりました。
そして西田敏行さん代表作、1988年に公開された「釣りバカ日誌」。20作品以上にも及ぶ長寿シリーズ!西田敏行さん演じるハマちゃんと、三國連太郎さん演じるスーさんで贈る、平成を土台にした人情喜劇。
1993年に公開された「釣りバカ日誌6」でも主演男優賞を受賞しており、2010年「釣りバカ日誌」を22年国民から愛されてきた功績を讃えられ、三國連太郎さんと共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞しました!
西田敏行さんは、寿子さんと共演はなかったのかな?
寿子さんと言うより、家族でCMやテレビ番組出演があったみたいよ!家族に対する柔らかい表情が印象的だったわ!
西田敏行に子供はいる?
引用元:女性自身
西田敏行さんには2人の子供がいるようです。幼少期には一緒にテレビ番組やCMに出演していたみたいですね!ただ芸能界入りした情報はなく、2024年現在は一般人のようです。
子供は娘2人で長女が西田彩夏(さやか)さん。次女が西田梨沙(りさ)さん。
- 彩夏さん 1976年生まれ
- 梨沙さん 1977年生まれ
2024年10月現在で彩夏さん48歳、梨沙さん47歳くらいだと推測されます。家族に関しての情報が少なく、「孫がいる」との情報は得られませんでした。もしも孫がいるのならば、溺愛していたかもしれませんね。
西田敏行さんは、すごく多忙だったと思うけど、家族との時間ってとれていたのかな?
子供がまだ小さい頃はよく遊んであげていたみたい。「パパの宝物」という曲を作ってカセットテープに録音していたそうよ!離れていてもいつでもカセットテープを聴けるし子供たちは嬉しかったんじゃないかしら?
西田敏行のプロフィール・SNS
引用元:日刊スポーツ
プロフィール
- 名前:西田敏行(にしだとしゆき)
- 生年月日:1974年11月4日
- 年齢:76歳(2024年10月現在)
- 出身地:福島県
- 血液型:B型
- 趣味:落語鑑賞、プロ野球観戦、海外旅行
- 特技:即興音楽、乗馬
- 所属事務所:オフィスコバック
SNS
- オフィシャルサイト URL:https://www.nishidatoshiyuki.com/
西田敏行さんってバラエティーでも演技中でもアドリブが凄かったらしいね!
趣味が落語鑑賞らしいから、パッ!と思いつくのかしら?2行のセリフが2ページ分になったことがあるみたいよ!