歌手や女優だけでなく、バラエティ番組出演やサッカー解説など、幅広い分野の第一線で活躍を続けている小柳ルミ子さん。
72歳となった現在でもかっこいいダンスを披露、変わらぬ美しいスタイルをキープし、その美しさで性別問わず多くの人を虜にしてきました。
今回は小柳ルミ子さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】小柳ルミ子は若い頃かわいい!
10代(1962年~1972年)
引用元:小柳ルミ子Instagram
小柳ルミ子さんは1968年(当時16歳)に筑紫女学園中学校を卒業して宝塚音楽学校へ入学しました。在学中、元々歌手希望だった小柳ルミ子さんは、友人からの紹介で渡辺プロダクションへ歌手になりたいことを伝えると、首席で卒業したら歌手にしてあげる、との回答をもらったそうです。
その後練習を積み重ねて、その言葉通りに1970年(当時18歳)に宝塚音楽学校を首席で卒業しました。努力を積み重ねて結果を出したのはとても素晴らしいですね。
同年に第56期生として宝塚歌劇団に夏川るみの芸名で入団します。同期には、現在も舞台などで活躍されている女優の麻実れいさんなどがいらっしゃいます。小柳ルミ子さんは、初舞台だけは踏みなさい、と言われていたようで、一度入団したのち2か月後に宝塚歌劇団を退団します。
上の画像は宝塚音楽学校に送った15歳の時の写真です。文句なしの美少女で、首席も納得のかわいさですよね!
引用元:NHKアーカイブス
退団したのと同じ1970年(当時18歳)に、歌手デビュー前に知名度を上げるため、NHK連続テレビ小説「虹」に出演して女優デビューを果たします。上の画像はドラマ出演時のもので、小柳ルミ子さんは右から2番目の制服姿の女性です。天真爛漫な可愛らしい笑顔ですよね!ヒロインを務めた南田洋子さんの長女役として出演しました。
このドラマの撮影中にデビュー曲が出来上がったという知らせが入りました。マネージャーに手渡された譜面を見て歌うと涙が出てきて、福岡の母に電話しながら大泣きしたそうです。
引用元:TOWER RECORDS
1971年4月25日(当時19歳)、渡辺プロダクションの合弁会社であるワーナー・ブラザース・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)で初の邦楽部門歌手として契約、「わたしの城下町」で歌手デビューしました。
NHK朝ドラ出演後ということもあり、デビュー曲はなんと160万枚を売り上げ、1971年オリコン年間シングル売上チャートで第1位を記録し、第13回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞しました。とても華々しいデビューですよね。
上の画像はデビュー曲「わたしの城下町」のジャケット写真です。可愛らしいけど大人っぽくもあり、とても美人ですよね。
小柳ルミ子さんは、どうして歌手になりたいと思ったのかな?
それは、お母さんの影響が強いみたいよ。お母さんも歌手になりたかったけど、家が裕福でなく、音楽学校へ行くお金がなくて諦めたみたい。だから、お母さんは娘が産まれたら歌手にしたいって思ってたみたいね。小柳ルミ子さん自身も、物心ついた時から歌手になりたいと思っていたようで、3歳から歌手になるためのお稽古をしていたそうよ!
20代・30代(1972年~1992年)
引用元:TOWER RECORDS
1980年(当時28歳)、小柳ルミ子さんの30枚目のシングルとなる「来夢来人」(ライムライト)を発売しました。上の画像は「来夢来人」のジャケット写真です。透明感があって、やはり美しいですよね!
この発売をしたときに、1982年まで松竹歌劇団の本拠地であった浅草の国際劇場のステージで、新曲のお披露目を行いました。その際、小柳さんはたくさんの男性バックダンサーを従えて華麗なダンスを披露したのですが、これが紅白歌合戦のスタッフの目に留まり、「紅白でもやってほしい」とオファーを受けたそうです。のちに、小柳ルミ子さんは以下のように語っていました。
「その年の紅白で同じようにダンサーを従えて踊ったら、『小柳ルミ子は踊るんだ!』とたくさんの反響をいただいたんです。やっと私が踊る人だと認知されるようになりました。そうしたらもう、もっとダンスがしたい!と火がついちゃったんです」
引用元:週刊女性PRIME
歌手として順風満帆の小柳ルミ子さんですが、幼少期からダンスも習っていたこともあり、この曲の演出をきっかけにダンスがしたい気持ちが高まったようです。
引用元:映画.COM
小柳ルミ子さんは様々な作品に出演し続け、女優としても活躍されていました。1982年(当時30歳)には映画「誘拐報道」で主人公の妻役を演じ、第56回キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞と第6回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞しました。
さらに翌年の1983年(当時31歳)には、映画「白蛇抄」に主演し、主人公の石立うたを演じ、第7回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞しました。上の画像はこの映画のポスター画像です。妖艶な雰囲気が漂っていますね。
1982年の小柳さんの受賞をうけて、この映画の監督だった伊藤俊也さんはプロデューサーから「小柳主演で水上勉原作の『白蛇抄』を作ろう」と言われて作られた映画で、濡れ場シーンもあるものでした。
小柳さんは、初ヌード披露について「自分で納得して演じた」と話していたそうです。この映画が公開されてとても話題となり、小柳さんにアダルトで奔放なイメージがついたといわれています。
引用元:X志村けん 小柳ルミ子 コント pic.twitter.com/8JFUSLgeuu
— 癒しの香り (@Q8kmmJoMe6jqH3z) September 15, 2021
1990年(当時38歳)、小柳ルミ子さんはついに動き出し、個人事務所を立ち上げます。そして、1992年(当時40歳)、自身のディナーショーの本番中に「私、今年いっぱいで事務所をやめさせていただきます」と突然独立を宣言しました。
小林さんはポップスやミュージカルをやりたいと、事務所と相談していましたが叶わなかったため、独立を決意しました。ミュージカルは稽古含め数か月の時間が必要ですが、それより1か月間コンサートをやった方が収入が得られるため、折り合わなかったようです。
ちなみに、事務所の名前は「テンプテーション」(誘惑)で名付け親は志村けんさんだそうです。上の画像は小柳ルミ子さんと志村けんさんのコントの一幕です。この時は新婚夫婦役ですが、とても仲が良さそうな雰囲気が出ていますね。
小柳さんはTBSバラエティ番組「8時だョ!全員集合」でゲストとして最も多く出演し、ザ・ドリフターズとコントなどで共演していたため、仲が良く信頼していたようです。以下のように小柳さんは話しています。
「電話で“社名考えてよ”と急に聞いたのに、けんちゃんは“ルミ子っぽいじゃん”って、とっさにそういう言葉が出てくるんです。それもけんちゃん自身がものすごい勉強家だったからだと思います。」「実際に私がショーでどんな歌を披露すればいいか、電話で相談していたほど。」
引用元:デイリー新潮
小柳ルミ子さんは、どうしてミュージカルをやりたい思いが強かったのかな?
それは、歌と踊りをしているときが一番自分らしいと思える瞬間だったからみたいよ!当時日本ではミュージカルがあまり一般的ではなかったみたいね。ダンスができないんだったら、会社を辞めて劇団四季に入団するか、ブロードウェイに留学するか真剣に考えたこともあったらしいよ。ちなみに、小柳さんは「キャバレー」を演じてみたかったんだって!
40代・50代(1992年~2012年)
引用元:X#子供の頃怖かったもの
— minoru (@sjmnrs) January 6, 2019
『家なき子』の真弓と小柳ルミ子 pic.twitter.com/hUsOEXgpA3
事務所からの独立は、芸能活動を続けるのに不利で活動が大きく制限されるイメージがありました。しかし、小柳ルミ子さんは、その後も変わらず歌手・女優として活動を続け、さらに新しいことにも挑戦し活動の幅を広げていきます。
1994年(当時42歳)、安達祐実さん主演で大ヒットしたドラマ「家なき子」に、主人公をいじめる伯母さん役で出演しました。おとなしい女性、奔放な女性など様々な役柄を演じてきた小柳ルミ子さんでしたが、子どもをいじめるなんて絶対にできないから「無理です!」と断ったそうです。
しかし、脚本家の野島伸司さんに口説かれて最終的には出演する事になったそうですが、その反響は大きかったようで、清純派アイドルのイメージとのギャップが話題となりました。上の右の画像はドラマ出演時の小柳ルミ子さんです。今までのイメージと違って迫力がありますね!
引用元:小柳ルミ子オフィシャルブログ
50代で小柳ルミ子さんにとって運命的な出会いを果たします。52歳の時にリオネル・メッシ選手に興味を持ったことがきっかけでサッカーに出会います。2024年現在までサッカー好きは続いていて、年間2000試合見て、毎試合ごとに分析をして、2014年からサッカー関連のことをブログに掲載しています。
そのため、睡眠時間が3~4時間になることもあるそうですが、つらくないと話していました。熱狂的なサッカーファンですね!
上の画像はサッカー好きになった2004年に舞台「アニー」にハニガン役で出演した時のものです。
ちなみに、この時アニー役で共演していた澤井杏奈さんが、2024年に第76回エミー賞でドラマシリーズ部門主演女優賞を受賞した際、小柳ルミ子さんは自身のブログやInstagramで「私は昨日テレビを見ていて、手が止まり、目が点になり次第に涙が溢れて来ました」とコメントして、祝福していました。
今は閉めてしまった小柳さんの個人事務所に、澤井杏奈さんが所属していたこともあったそうです。
小柳ルミ子さんは、どうして今までと違う新しい役や活動への挑戦を続けているのかな?
それは、1つのキャラクターをずっと押し通すより、多面性が混在しているのが小柳ルミ子だ、と自分で思っているから見たいよ。「いい意味で見ている人を裏切り続けたい」と考えているみたいね。
60代・70代(2012年~)
引用元:小柳ルミ子オフィシャルブログ
サッカー好きを公にし、その分析力や熱狂ぶりから遂に、2017年7月15日(当時65歳)「明治安田生命Jリーグワールドチャレンジ2017 浦和レッズvsボルシア・ドルトムント」戦でサッカー解説者デビューをしました。
上の画像はその時のものです。画像左のタレントのJOYさんとともに副音声を担当し、当時日本代表だった香川真司選手が所属するドイツの強豪チームであるドルトムント側を主に小柳さんが解説しました。
「私の勝手な分析で 私の勝手な洞察力で 私の勝手な哲学で言いたい事を言わせて頂きます」と話されており、当日はJOYさんとの解説や選手との交流をとても楽しんでいました。
ちなみに解説者デビューの3日前に、小柳さんが大好きなメッシ選手の来日会見に急遽出席することができ、初めてメッシ選手を間近で見られることとなりました。とても興奮していた様子で、その興奮冷めやらぬまま初解説を行ったようです。
引用元:小柳ルミ子Instagram
2021年(当時69歳)に歌手デビュー50周年を迎えた小柳ルミ子さん。今なお健在のスレンダーボディはよく話題に上がります。上の画像は2024年2月(当時71歳)に自身のInstagramに投稿されたものです。70代ですらっとした足でY字バランスをしていて、とても70代には見えないですよね。
スタイル抜群で肌も綺麗な小柳さんですが、ジムやエステなどのお金は全くかけていません。
インタビューの中で「トレーニングは日々、やっています。ストレッチ、筋トレ・・・毎日欠かさずにやっています。それの継続の賜かなと思っています。特別なことは何もやっていなくて、その5分、10分の積み重ねですね」と話されています。
スキンケアについても高価な化粧水などは使っておらず、丁寧に洗って化粧水と美容液をつけるだけなのだそうです。また、日々の運動のおかげで新陳代謝が上がり、肌の状態を美しく保つことにも役立っているみたいです。
小柳ルミ子さんは、どうしてストイックに日々のトレーニングを続けられているのかな?
仕事のためでもあるけど、なんでも年齢のせいにしたくないからみたいよ。「『歳だから背中が丸まっちゃって』とか『お腹が出ちゃって』とか言いたくないんです。」と話していて、とても負けず嫌いみたいね。
小柳ルミ子さんが所属する”プラチナムプロダクション”には他に誰が所属してる?
引用元:上:プラチナムプロダクション、中:プラチナムプロダクション、下:プラチナムプロダクション
小柳ルミ子さんの所属するプラチナムプロダクションには、小倉優子さん、KABA.ちゃんさんや川﨑麻世さんなどが所属しています。
【画像】小柳ルミ子と元旦那大澄賢也の離婚理由は?指原莉乃への炎上失言は?
小柳ルミ子と元旦那大澄賢也の離婚理由は?
引用元:週刊女性PRIME
引用元:キューブ
1988年11月(当時36歳)のときに13歳年下のダンサー大澄賢也さんと出会い、年明けの1989年に結婚しました。上の画像1枚目が結婚当初の2人で、2枚目が現在の大澄賢也さんです。当時は珍しかったスピード婚、格差婚として話題となりましたが、2000年(当時48歳)に2人は離婚し、11年間の結婚生活に幕を閉じました。
直接的な原因は大澄賢也さんの浮気だったそうです。小柳ルミ子さんは別れる条件として、1億円の慰謝料を支払うか、バックダンサーに戻るかを大澄賢也さんに要求したという報道がありましたが、それは大澄さん側が提案したもので、大澄さんは最後まできちんと慰謝料を払い続けたそうです。
結婚後は、料理番組などのテレビ番組やステージに夫婦で出演するなど、芸能界のおしどり夫婦といわれていました。当時、大澄賢也さんは結婚により知名度が上がった1990年ごろから俳優へ活動をシフトし、ドラマやバラエティ番組にも出演していました。
そのため、月収400万円ほどあったこともあったそうです。しかし、小柳さんから「(私が休んだら)あなたの稼ぎだけでは、やっていけない」と言われたそうで、それが2人の間に子供がいない理由の1つのようです。
また、2013年放送のテレビ番組内で、東国原英夫さんが「賢也の浮気のきっかけをつくったのは僕です」と小柳さんに謝罪した場面がありました。大澄賢也さんと東国原英夫さんは当時バラエティー番組「セイシュンの食卓」(1992年~1994年放送)で共演しており、東国原さんは大澄さんを浮気のきっかけとなった飲み会に誘ったようです。
小柳ルミ子さんは、当初「別れるときは死ぬときです」と話しており、最後まで添い遂げるつもりでした。今までやりたいことを貫いて成功させてきた小柳さんにとっては初めての挫折だったようです。
のちにこの離婚について、「私の性格上“人生には全うできないこともあるんだ”ということを受け入れるのに3年もかかってしまいました。初めての人生の挫折といえばそうですね」と語っていました。
小柳ルミ子さんは、「恋多き女」と言われていたみたいだけど、離婚後の恋愛事情はどうなっているのかな?
小柳さんは、2007年(当時55歳)に27歳年下の石橋正高さんと婚約を発表したけど、入籍直前に婚約を解消したみたいね。別れた理由について、小柳さんは「いつまでも甘えられて疲れちゃった。なんとなく私が連絡しなかった」と話していたみたいよ。その報道があった最中もほかの俳優さんから告白されていたみたいで、本当モテモテだったそうよ!
小柳ルミ子の指原莉乃への炎上失言は?
引用元:小柳ルミ子オフィシャルブログ
引用元:小柳ルミ子オフィシャルブログ
2020年9月9日(当時68歳)放送、日本テレビ「今夜くらべてみました」に出演し、「踊らずにはいられない女」というテーマでトークをしていました。上の2枚の画像はその時のものです。番組内で当時ダンス歴65年だった小柳ルミ子さんは、「だいたいこの人たちの比較にならない!」と共演ゲストに対して発言し、また以下のように話していました。
「みなさんに言っておきたいけど、ダンスがうまくなってさらに進化するには、絶対にクラシックバレエの基本が大事。床上で踊っているのは踊りじゃない」「ずっと床上で踊っているのは動き。リフトしたりデュエットしたり、あれが踊りです」
引用元:スポニチ
ダンスの基礎としてのクラシックバレエの重要性、空間を利用してこそダンスであるということを強調していました。この発言に対してMCの指原莉乃さんは「私たちがステージでずっとやっていたのは、動いてただけなんですね」とコメントし、自身のアイドル時代を自虐する形でスタジオを笑わせていました。
放送後小柳さんの発言に対して視聴者からは、「『バレエの基礎はダンスにおいてとても重要』という部分には『ホントそうだよなぁ』と思った」と共感の声もある一方で、「上から目線だ」「バレエで謎のマウント取ってて不快」「流石に老害すぎる」「自分だって大したことない」と批判が殺到し炎上しました。
小柳ルミ子さんは、どうして炎上のきっかけとなったコメントをしたのかな?
それは、クラシックバレエのようなストーリー性があってドラマを感じられるようなダンスが好きで、若い人に流行っているヒップホップのようなダンスは魅力を感じないからみたいよ。翌日10日に自身のブログで思いを再び説明していたわ。
小柳ルミ子さんがデビューした1970年はこんな年だった!
引用元:万博記念公園、朝日新聞DIGITAL、読売新聞オンライン
小柳ルミ子さんがデビューした1970年は、「日本万国博覧会(大阪万博)開幕」、「日本航空機よど号ハイジャック事件発生」、「マクドナルド日本第1号店が銀座店にオープン」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語は、日本万国博覧会のテーマであった「人類の進歩と調和」、興奮している時に使う「鼻血ブー」、当時の若者を表す言葉であった「三無主義(無気力、無関心、無責任)」などでした。
小柳ルミ子のプロフィール・SNS
引用元:プラチナムプロダクション
プロフィール
- 名前:小柳 ルミ子(こやなぎ るみこ)、rumico(歌手名)
- 本名:小柳 留美子
- 生年月日:1952年7月2日
- 年齢:72歳(2024年12月現在)
- 出身地:福岡県福岡市早良区
- 血液型:A型
- 趣味:サッカー鑑賞(年間2000試合)
- 特技:バレエ、習字、アート書道
- 所属事務所:プラチナムプロダクション
SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/rumiko2020
- Instagram URL:https://www.instagram.com/rumiko_koyanagi/
- 公式ブログ URL:https://ameblo.jp/rumiko-koyanagi/
小柳ルミ子さんはサッカー観戦以外に好きなことはあるのかな?
野球やゴルフなどほかのスポーツも好きみたいね。あと、料理好きだったみたいよ。でも料理中に包丁を持ったまま倒れちゃったことがあって、危ないから今は卒業したみたい。