【画像】淡谷のり子は若い頃美人!夫・娘の現在や笠置シヅ子との関係は?

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日本のシャンソン界の先駆者として知られ、「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子さん。

NHK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」にて、菊地凛子さんが演じる茨田りつ子(いばらだりつこ)のモデルにもなりました。

今回は淡谷のり子さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!

菊地凛子さんの若い頃が美人話題です!旦那との馴れ初めも気になる方は以下の記事もチェックしてくださいね♪

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目次
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【画像】淡谷のり子は若い頃美人!

幼少期~10代(1907年~1927年)

淡谷のり子さん
引用元:NHK

淡谷のり子さんは、1907年に、青森市内で1、2を争う大きな呉服店「大五阿波屋」(だいごあわや)の長女として産まれました。

裕福な家庭で育った淡谷のり子さんでしたが、のり子さんが3歳のとき、未曽有の火災青森大火が起こり、のりこさんの実家も焼失してしまいました。

上の画像は、妹、とし子さんと一緒に撮った写真です。呉服店の子供というだけあり、素敵な着物を着ていて、とても品があり、育ちの良さが分かりますね!

淡谷のり子さん
引用元:NHK

実家は災難に見舞われましたが、のり子さんは無事、女学校に進学することができました。

高校生になったのり子さんは、革靴にはかま、という当時最先端の格好をして、自分のスタイルにはとことんこだわるタイプだったそうです!この当時から、個性的で強い意志のようなものを感じますね!

淡谷のり子さん
引用元:NHK

1923年16歳の時、のりこさんは高等女学校を中退し、父に愛想を尽かした母、妹と共に上京しました。

当時、三浦環さんのファンだった淡谷のり子さんは、「音楽教師になって、余暇で三浦さんのようなクラシック音楽を楽しむ女性になれれば」と考えて東洋音楽学校を志望しました。しかし、校長先生の「声楽なんてお前さんには難しくて出来ないよ」との一声で同校ピアノ科へ入学することになってしまいました。

ピアノ科へ入学後、荻野綾子さんから声を掛けられ、数日後に声楽科への編入試験が行われることを知り、受験を薦められました。のり子さんは難色を示したものの、試験当日、観念して試験会場に向かって受験すると、合格したのは淡谷のりこさんだけでした。

そして、ピアノ科から声楽科へ編入し、ここで初めて本格的に音楽を学び始め、オペラ歌手を目指します。ところが入学から半年、関東大震災が起きます。

生活は徐々に貧しくなり、さらに妹・とし子さんが栄養失調のため失明の危機に陥ります。のり子さんは治療費と学費を得るため、1年ほど学校を休学し、1924年(当時17歳)から「霧島のぶ子」と名乗りヌードモデルとして生活費を稼いていきます。家族を守る為に決断した淡谷のり子さんは、本当にカッコイイですね!

ギモンくん

淡谷のり子さんは、幼い頃、裕福な家庭で育ったとのことだけど、どんな物を食べていたのかな?

カイケツさん

何不自由なくぜいたくな幼少期を過ごした淡谷のり子さんは、毎日、重箱が用意され、チョコレートマシュマロなどの高級菓子を食べていたようだよ!お菓子がそろっていないとすぐに不機嫌になっていたんだって!

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20代・30代(1927年~1947年)

淡谷のり子さん
引用元:Wikipedia

東洋音楽学校に復学した淡谷のり子さん。フランスに渡った荻野綾子さんが指導者として指名した久保田稲子さんのもと、二人三脚で学んでいきました。

そして、1929年21歳の時、淡谷のり子さんは大学を首席で卒業し、「10年にひとりのソプラノ歌手」と呼ばれました。しかし、クラシック歌手として活動するが、生計が立たず、家族を支えるため、稼ぎのいい流行歌手の道を選びます。

淡谷のり子さん
引用元:NHK

1930年(昭和5年)22歳の時、淡谷のり子さんは、ポリドールから「久慈浜音頭」で歌手デビューしました。翌1931年には、日本コロムビアへ移籍。「私此頃(このごろ)憂鬱よ」がヒットし、流行歌手として名が知られるようになりました。

1935年(昭和10年)27歳の時には、シャンソン曲『ドンニャ・マリキータ』がヒットし、日本におけるシャンソン歌手の第1号となりました。そして、1937年(昭和12年)29歳の時、100万枚を超える大ヒットとなった、「別れのブルース」が発売され、一気にスターダムへ駆け上がります!この頃の淡谷のり子さんの歌を、ぜひ生で聞いて見たかったですね!

淡谷のり子さん
引用元:NHK

1938年(昭和13年)31歳に発売された「雨のブルース」は、満州の将兵たちに熱狂的に受け入れられ、大ヒットしました!そして、1939年(昭和14年)に始まった第二次世界大戦中は、歌手として慰問活動を積極的に行います。

特攻隊の前でも歌ったことを明かしていて、

歌っている間に来たらごめんなさいって言うんですよ。来なきゃいいですねと思っていたら、来ましたね。すっと立っていくのかと思ったら、その兵隊さんが笑顔で私にこうやって、あいさつしていなくなる。そのときくらい悲しいと思ったことはないですね。二度と再び帰らないと思ったらもう胸がせつなくて歌えなくなっちゃって、ちょっとまってください歌わせてください、待っていただいて、それで(歌って)送り出しました

と語っていました。胸が熱くなるエピソードですね。

ギモンくん

戦時中は、どのような服で歌手活動をしていたのかな?

カイケツさん

もんぺなんか履いて歌っても誰も喜ばない」という信念で、戦時中は禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包んで歌っていたんだって!変わらない強い意志を感じるよね!

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40代・50代(1947年~1967年)

淡谷のり子さん
引用元:NHK青森

戦後、テイチクビクター東芝EMIと移籍を繰り返しながらも活躍を続けていた淡谷のり子さん。1953年(昭和28年)36歳の時に、「第4回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たし、初出場でありながら紅組のトリを務めました!

上の画像は第4回NHK紅白歌合戦の時のものです。他の方を圧倒するようなオーラが凄いですね!

淡谷のり子さん
引用元:Wikipedia

この頃から、テレビのオーディション番組の審査員やバラエティー番組にも出演して活躍の場を広げていき、番組ではプロ意識の高さが影響し、辛口コメントをするようになりました。たくさんの試練を乗り越えてきた淡谷のり子さんだからこそ、厳しく審査する目が出来たのかもしれないですね。

ギモンくん

辛口コメントの印象が強い淡谷のり子さんだけど、本当はどんな性格だったのかな?

カイケツさん

50歳の時に書かれた自伝本で、「気が弱いくせに、負けず嫌いで、 
お人よしのくせに、意地わるだ。 辛いこと、悲しいことが重なって、 
なきたくなっても、 人前ではふざけてみせる。 お前は切ないあまのじゃくだ。
」と、友人でもある、元国会議員で、文学者でもあった悠蔵さんが明かしていたよ!

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60代以上(1967年~)

引用元:X

1971年(昭和46年)に、64歳で、第13回日本レコード大賞特別賞を受賞しました!1979年(昭和54年)には津軽三年味噌(かねさ)の広告に出演し、淡谷のり子さんが口にした「たいしたたまげた!」(青森の方言で「とても驚いた!」)は、当時の流行語になりました!

また、1980年代から1990年代にかけて、フジテレビ「ものまね王座決定戦」の名物審査員として出演し、辛口評価を含めてお茶の間から大人気となりました!ものまね四天王だった、清水アキラさんやコロッケさんが怒られてる姿は、当時かなりインパクトがありつつも面白かったですね!

淡谷のり子さん
引用元:NHK

85歳で新曲を発表するなど、テレビやコンサートで精力的に活動を続けた淡谷のり子さんでしたが、1993年(平成5年)に脳梗塞で倒れます。1996年(平成8年)には寝たきりとなり、療養生活を送るようになったようです。

最晩年の1998年(平成10年)10月には故郷・青森県青森市の名誉市民に選ばれ、推戴式に車椅子姿で出席したのが公の場での最後の姿となり、1999年(平成11年)9月22日午前4時30分、老衰のため東京都大田区上池台の自宅で92歳でお亡くなりになりました。

音楽と人に愛されて、最後まで淡谷のり子さんらしさ満載でしたね!

ギモンくん

仕事場でもプライベートでもおしゃれ好きという淡谷のり子さんだったけど、生涯で費やした総額がいくらくらいだったんだろう?

カイケツさん

淡谷のり子さんは、ラジオ番組に出る時でさえキレイなドレスを着て現場に行っていて、ドレスやイヤリング、ネックレスなどに生涯で費やした総額は、現在の貨幣価値に換算して約8億円とされていたようだよ!さすが淡谷のり子さんだね!

淡谷のり子さんの所属レーベルであったビクターエンタテインメントには他に誰がいる?

引用元:上:ナタリー、中:女性自身、下:ナタリー

淡谷のり子さんの所属していたビクターエンタテインメントには、サザンオールスターズ木村拓哉さんや星野源さんなど数多くのアーティストが所属しています。

同じ事務所の木村拓哉さんの若い頃がイケメンと話題です!弟さんのことも気になる方は以下の記事もチェックしてくださいね♪

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【画像】淡谷のり子の夫・娘の現在は?笠置シヅ子との関係は?

淡谷のり子の夫・娘の現在は?

淡谷のり子さん
引用元:ToMuCo
引用元:日刊ゲンダイ

淡谷のり子さんは1931年24歳の時にジャズピアニストの和田肇さんと結婚しましたが、4年後の1935年28歳の時、離婚します。「結婚を決める際、恋人と歌の先生の二つを手に入れたいという妙な打算があったのね。全ては歌の為だった」と後に語っています。

その後淡谷のり子さんは亡くなるまで独身でしたが、一人娘の重村奈々子さんがいらっしゃいます。和田さんとの子ではなく、父親は公表されていません。一部の間では親交があったディック・ミネさんが父親じゃないかと言われましたが違うようです。上の写真はディック・ミネさんとレコーディングの様子です。確かに親しそうには見えますよね!

ギモンくん

淡谷のり子さんの娘さんは今は何をされているのかな
芸能界で活躍されてたりしてるの?

カイケツさん

歌手の秋元順子さんが娘さんだと憶測があるけれど、年齢が合わないから違うみたい。娘さんは一般の方で淡谷のり子さんの晩年は奈々子さんと奈々子さんの旦那さんと三人で暮らしていたみたいだね!

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淡谷のり子と笠置シヅ子との関係は?

引用元:ウーマンプレジデント
引用元:テレ東

淡谷のり子さんと笠置シヅ子さんは、作曲家の服部良一さんに師事していたこともあり、良く比較される存在として認識されています。年齢こそ淡谷さんの方が7歳年上でしたが、淡谷さんの「別れのブルース」がヒットしブルースの女王と呼ばれ、笠置さんが「東京ブギウギ」でヒットしたことにより、ブギの女王と呼ばれる存在となり、ライバル関係と言われました。

実際はヒットした年代が、1937年の別れのブルースに対して、1947年の東京ブギウギということもあり、1945年に戦争が終結する前と後の時代なので、一概に比較することは難しいと言えます。ただ笠置さんからすれば、淡谷さんを先輩として憧れの存在だったようなので、良き、先輩・後輩の関係とも言えるのかも知れませんし、下記のエピソードから見ると盟友関係と言っても良いのでしょう。

淡谷のり子さんの評伝「別れのブルース・淡谷のり子」では、笠置さんが淡谷さんのステージを妨害したことや、後輩いじめを続ける笠置さんを淡谷さんが叱ったというエピソードが紹介されています。

また、笠置さんの評伝「ブギの女王・笠置シズ子」では、笠置さんをライバルとして意識していた淡谷さんが、戦後国民的スターになった笠置さんへの批判を繰り返したと書いてあります。しかしブギを歌わなかった淡谷さんが、笠置さんに頼まれるとステージで共演したということもあったようですね。

ギモンくん

淡谷のり子さんと笠置シヅ子さんにはお互いに認め合ってたのが感じられるね!
二人の交流はいつまで続いたのかな?

カイケツさん

二人の交流は晩年まで続いたみたいよ。淡谷のり子さんは笠置シヅ子さんの家を訪れるたび、笠置さんの娘さんに「お母さんに感謝しなさいよ」と声をかけていたんだって。

淡谷のり子さんがデビューした1930年はこんな年だった!

マハトマ・ガンジー
「特急燕」
北伊豆地震
上:西日本新聞、中:JR西日本、下:労働新聞

淡谷のり子さんがデビューした1930年は、マハトマ・ガンジーがインドの独立を目指して「塩の行進」を開始「特急燕」登場北伊豆地震などの出来事がありました。

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淡谷のり子のプロフィール・SNS

淡谷のり子さん
引用元:スポニチ

プロフィール

  • 名前:淡谷 のり子(あわや のりこ)
  • 本名:淡谷 規
  • 生年月日:1907年8月12日
  • 死没:92歳(1999年9月22日)
  • 出身地:青森県
  • 趣味:おしゃれ、バービー人形(本人が着用した舞台衣装を小さく仕立てて着せていた)
  • 所属事務所:コロムビア、ビクター
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受賞歴

  • 1971年:第13回日本レコード大賞特別賞
  • 1972年:紫綬褒章受章
  • 1972年:佐藤尚武郷土大賞
  • 1976年:NHK放送文科賞(第27回)
  • 1978年:青森市制施行八十周年記念文化賞
  • 1978年:日本レコード大賞特別賞
  • 1979年:勲四等宝冠章受章
  • 1983年:芸能功労者表彰(第9回)
  • 1987年:日本作詞大賞特別商(第20回)
  • 1998年:青森市名誉市民
ギモンくん

淡谷のり子さん、バービー人形に自分と同じ衣装を着せるってかわいいね。
プライベートでもおしゃれだったみたいだね

カイケツさん

もちろん!ラジオ番組に出る時もキレイなドレスを着て現場に臨んでたんだって。ドレスやアクセサリーに費やした金額の総額は、現在の貨幣価値に換算して約8億円って言われてるわ!

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