第64代横綱、引退後はプロレスなどの格闘技界やタレントとして活躍を続けていた曙太郎さん。
その大きな体格と、日本人より日本人らしい振る舞いで多くの人を魅了してきました。
今回は曙太郎さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】曙太郎は若い頃イケメン!
10代・20代(1978年~1999年)
引用元:日刊スポーツ
曙太郎さんは、アイルランド系の血を引く父と、キューバ系アメリカ人の母との間にハワイで生まれ、育ちました。
曙さんは身長2m以上あり、その体格を東関親方(元関脇高見山)に見込まれて相撲界入りしました。元々は曙さんの弟を入門させたかったそうですが、弟は気が進まなかったため、身代わりとして兄の曙さんを日本に送ったという噂もあります。曙さんの父は入門を喜びましたが、母からは猛反対を受けていました。
曙さんはこの時、アメリカ本土の大学にスカウトされた地元の運動部員が挫折してハワイへ出戻った際、住民から中傷を受ける様子を何度も見てきたため、自分はそのようにはなりたくないと思い、「とにかくもうハワイには帰れないな」と感じていたそうです。
1988年3月場所(当時18歳)に初土俵を踏み、白星を飾りました。上の画像はそのときの一番出世披露のものです。東関親方(元関脇高見山)の化粧まわしがとても似合っていてデビューしたばかりなのに貫禄がありますね。
引用元:日刊スポーツ
1992年5月場所(当時23歳)で初優勝し、大関に昇進しました。その後、同年11月場所(14勝1敗)、1993年1月場所(13勝2敗)と2場所連続優勝を果たしました。
圧倒的な強さを見せつけていた曙さんですが、1992年11月場所後の横綱審議委員会では、「曙の風格、実績はまだ十分ではない気がする」「成績、内容ともにハイレベルな横綱を作ろう」との意見が出ていたそうです。
1993年1月場所では、平幕相手に2敗してしまったことで横綱昇進は一度危うくなりましたが、千秋楽結びの一番では、貴花田(貴乃花光司さん)との対決をわずか2秒で圧倒し優勝したそうです。
1993年1月場所後の横綱審議委員会で、曙の横綱昇進が推薦され、史上初の外国人横綱に昇進しました。上の画像は横綱昇進伝達式で横綱に指名されたときの曙さんで、右は東関親方、左は東関親方夫人の加寿江さんです。
それまで5場所連続で横綱不在の状態が続いていましたが、曙さんが横綱になったことで解消されました。当時について、曙さんは「すんなり昇進できた」と感じていたそうです。
引用元:共同通信
1996年4月22日(当時27歳)、曙さんは日本国籍を取得し、本名がハワイ名のチャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェンから日本名の曙太郎に変わりました。
ハワイ出身力士では高見山さん、小錦さん、武蔵丸さんに次いで4人目の日本国籍取得となりました。曙さんは「一つの小さい壁を越した感じです」と話していたそうで、上の画像は日本国籍取得を発表した時のものです。土俵上では見せないにっこり笑顔が素敵ですよね!
外国人力士が引退後に相撲協会に残って役員や親方となるには、日本国籍が必要であったため、当時は引退後に親方になって後進の育成に携わりたいと考えていたのではないかと思われます。
相撲の稽古は日本人力士でも逃げ出すこともあるらしいけど、曙太郎さんは、どんな思いでそれに耐えて稽古に臨めたのかな?
それは、誰にも負けたくないっていう思いがあったからみたいね。
曙さんは「目から汗がよく出るのが、本当の稽古だから」と語っていたそうよ。
関取になる前に曙さんは、貴乃花(貴乃花光司)さんと血だらけになりながら1時間以上決闘のような稽古を続けていたことがあって「伝説の猛稽古」と言われているんだって。
30代(1999年~2009年)
引用元:JIJI.COM
2001年1月22日(当時31歳)に、曙さんは日本相撲協会に引退届を提出し、持ち回り理事会で「年寄・曙」襲名が承認され、現役引退しました。
引退後に年寄となって日本相撲協会に残るためには、通常は年寄名跡を持っていなければなりませんが、曙さんは引退時に年寄名跡を取得していませんでした。そのため、横綱の特権である引退後5年間は現役時代の名前のまま年寄を名乗ることができる制度を利用しました。
上の画像は2001年9月(当時32歳)の断髪式の時のもので、師匠である東関親方がまげにハサミを入れている写真です。曙さんはまげとの別れに向き合っているような、覚悟を決めたようにみえる表情をされていますね。
引退会見で曙は「8〜10勝の平凡な勝ち越しなら出来るが、もう優勝争いは不可能」「横綱として足を引きずった惨めな姿で土俵に上がりたくない」と話していました。
引用元:SmartFLASH
引退の大きな理由は両膝の怪我でした。上の画像は2001年2月(当時31歳)の力士引退直後にインタビューを受けたときの曙さんです。引退してほっとしたような表情に見えますね。
曙さんは、1994年5月場所(当時25歳)前の巡業中に左膝を痛めましたが、横綱の責任感から強行出場していました。さらに、同場所9日目に右膝も負傷して12日目から途中休場をせざるを得なくなりました。
その後手術を受けましたが回復は思うようにはいかず、痛みと向き合いながら現役生活を続けていたそうです。その影響もあり、怪我から引退するまでの6年間で幕内優勝は4回にとどまりました。
それでも、2000年(当時31歳)には7年ぶりの6場所無欠場皆勤、かつ2度目となる年間最多勝も獲得し、引退直前まで横綱としての圧倒的な強さを魅せつけていました。
引退後のインタビューで曙さんは以下のように話しています。
「10歳のときに、アメフトで横からぶつけられて、半月板を損傷して手術したんです。それがずっと尾を引いて、中学・高校時代も痛かった。アメリカで車を運転していたときも、障害者用のステッカーを貼っていたほどですからね。新弟子時代も痛みはあって、入門当時から膝にサポーターをつけて稽古をしていました」
引用元:SmartFLASH
相撲界に入る前の幼少期からずっと膝の痛みと付き合ってきましたが、引退時にはとうとう限界を迎えていたようで、通常高齢者が多く発症する、膝の軟骨がすり減った変形性膝関節症の状態になっており、当時31歳で「老人の膝」でした。
曙さん本人も原因は分かっており、力士としては太りすぎたのが原因と話していて、このインタビュー当時230kgもあった体重は両膝に大きな負担を与えるものでした。
また、当時、膝の痛み止めの薬を服用すると心臓が苦しくなると訴えていたそうで、この頃から心臓の機能も低下していたことが考えられます。
引用元:BOUTREVIEW
引退後、曙太郎さんは部屋つき親方として過ごしていましたが、2003年11月4日(当時34歳)白昼に、夜逃げ同然に東関部屋を後にし、相撲協会を退職しました。
夜逃げのように急にひっそりと姿を消したのは、退職を引き留められないようにするためでした。
そして同年11月6日、大晦日に曙太郎さんがK-1参戦、TBS放送「K-1 PREMIUM 2003Dynamite!!」でボブ・サップさんと対戦することを発表しました。
上の画像はボブ・サップさんと対戦した時のものです。残念ながら試合時間はとても短く、1Rでボブ・サップさんのKO勝ちとなりました。引退後もトレーニングは続けていた曙さんですが、3年のブランクは大きかったのかもしれません。
当時は格闘技ブームで、日本テレビ、TBS、フジテレビがゴールデンタイムに格闘技を中継していました。その中でも「曙vsボブ・サップ」はとても注目度が高く、23時00分~23時03分の4分間は、瞬間最高視聴率43.0%を記録しNHK紅白歌合戦を上回りました。
民放番組が視聴率でNHK紅白歌合戦を超えたのは初めてで、現在に至るまでこの記録は破られていません。それだけ注目度が高かったことがわかります。
引用元:日刊スポーツ
注目のK-1デビュー後、曙さんは総合格闘技を経て、2005年(当時35歳)にプロレス参入しました。同年7月にアメリカのプロレス団体WWE主催「WWEスーパーショー」でビッグ・ショーさんとのコンビでカリート&マット・モーガン組と対戦し、正式デビュー戦を行いました。
その後8月に、「ファンタジーファイトWRESTLE-1」で日本でのプロレスデビューを果たし、グレート・ムタ(武藤敬司さん)と対戦し、敗れました。
その後、プロレスに目覚めた曙さんは、武藤敬司さんに弟子入りし全日本プロレスのことを「武藤部屋」と呼ぶようになったそうです。上の画像は2005年に曙さんが武藤敬司さんからヘッドロックを伝授されている時のものです。真剣に指導を受けている様子が伺えますね!
プロレス参入した2005年(当時35歳)から2013年8月(当時44歳)まで、個人事務所「曙道(旧:チーム・ヨコヅナ)」所属のフリーランス・レスラーとして活躍しました。
曙太郎さんは、どうして相撲協会を辞めてK-1に参戦したのかな?
それは、角界に残りたいという気持ちはあったけど、資金が調達できず年寄株(年寄名跡)を取得できなかったから、相撲協会を辞めざるを得なかったみたいよ。高砂部屋を継承する話もあったみたいだけど、ほかの親方たちの反対にあって実現しなかったみたいね。
後輩の指導については「自分の戦っている姿が見本になれば」と話していたそうよ。
40代(2009年~2019年)
引用元:スポーツ報知
2013年4月(当時43歳)に曙さんが現役時代に所属していた東関部屋が、師範代(力士のコーチ役)として曙さんを招待し、10年ぶりの角界復帰を果たしました。上の画像は2013年6月(当時44歳)に師範代として稽古場に立った曙さんです。
角界から離れた後にいれた両腕のタトゥーをテーピングで隠して、稽古に臨んでいました。その様子からも真面目に相撲と向き合っていることがわかりますよね!最初は言葉だけの指導の予定が、ぶつかり稽古もすることになり、胸を真っ赤にしながらも力士の当たりを必死に受け止めたようです。
指導後に、「部屋にきていいのか悩んだが、相撲、部屋を愛している。すべてはここから始まったんです。曙太郎の本籍ですから」と目に涙を浮かべながら話していたそうです。やはり相撲のことが大好きなようですね。
引用元:日刊スポーツ
2017年4月11日(当時47歳)、曙さんはDDTプロレスリング福岡大会出場後に体調の異変を訴え、翌日に病院に搬送されました。治療中に意識を失って心臓が37分間停止した場面もあったそうですが、奇跡的に命は助かりました。
しかし、心停止した時間が長かった影響で、下半身麻痺、記憶障害が出現しました。その後、1年以上も入院生活が続き、210kgあった体重は1年で140kgまで減ったそうです。上の画像は2018年(当時48歳)車いすに乗ってリハビリをしている曙さんです。だいぶ細くなりましたが、家族に見守られながら一生懸命リハビリを頑張っていたようですね。
曙さんは入院中に、病室に貴乃花との横綱時代の2ショットポスターを飾り、両国国技館の模型を眺めていました。曙さんは、入院前のように流ちょうには話せないものの、「若貴がいたから横綱・曙が生まれた」「元気になって一緒に仕事がしたい」と、退院後の夢を語っていたそうです。
妻のクリスティーンさんによると、「いい思い出があまりなかったプロレスのことはほとんど覚えてなくて、強かった横綱時代ははっきり覚えています」とのことでした。
曙太郎さんは、相撲やプロレス、タレント以外の活動って何かあるのかな?
曙さんはステーキハウス「曙ステーキ」の社長を務めていたそうよ。2012年11月(当時43歳)に1号店の荻窪店、2013年3月(当時43歳)に上野御徒町店をオープンしたみたい。640gのステーキをたいらげて「リングの方が危ないから商売を考えないと」と笑いを誘っていたみたいね。
50代(2019年~2024年)
引用元:Youtubeめざまし8チャンネル、Youtubeめざまし8チャンネル
2024年4月6日(当時54歳)、曙太郎さんは7年間の闘病生活の末、家族に見守られながら亡くなりました。死因は心不全でした。
上の画像1枚目は2020年(51歳)闘病中の曙さんです。
東関部屋に所属していた30年以上付き合いのある兄弟子の中井勝也さんがお見舞いに訪れた際の写真ですが、いい笑顔をされています。闘病中は昔の仲間がお見舞いに来ると、昔と変わらず周りを気遣いながらも、面白いこと言って笑わせようとしていたそうです。
2枚目の画像は葬儀の際の祭壇です。
真ん中の写真は若いころの曙さんの写真が使われ、両脇には横綱時代の優勝額が置かれていました。葬儀はハワイ式と日本式をミックスした形で行われ、相撲界から元若乃花の花田虎上さん、小錦八十吉さん、プロレス関係者からは曙さんをK-1へ誘った谷川貞治さんなど、約300人が参列しました。
遺骨は2つに分け、1つはご家族のもとに、もう1つはハワイに持っていって海に散骨することを検討しているそうです。18歳で来日したため、人生の半分以上を日本で過ごすことになった曙さんですが、生前、残りの人生はハワイに住みたいという思いがあったようです。
曙太郎さんの最後の言葉は何だったのかな?
曙太郎さんは亡くなる直前に、妻のクリスティーンさんへ「アイ・ラブ・ユー」と伝えたそうよ。とても大切に思っていたみたいね。
【画像】曙太郎と嫁の馴れ初めは?何の病気で闘病してた?
曙太郎と嫁の馴れ初めは?
引用元:日刊スポーツ
引用元:NumberWeb
曙太郎さんの妻はクリスティーン・麗子・カリーナさんです。クリスティーンさんのお父さんはアメリカ人、お母さんは日本人だそうです。
2人の出会いは、曙さんが来日してすぐの事でした。
クリスティーンさんのお父さんの昔からの友人が、曙さんのトレーナーとして東関部屋に出入りしており、英語しか話せない曙さんの話し相手として、クリスティーンさんが呼ばれたことが知り合ったきっかけでした。その時は何もなかったようですが、数年後に偶然再会し、話をするようになって、お付き合いが始まったそうです。
曙さんはとても体が大きく目立ってしまうため、2人のデートは実家だったそうです。2人きりになれるときは、映画を見たりして過ごしていました。ファーストキスもクリスティーンさんの実家だったのだとか。
1998年(当時29歳)に曙さんとクリスティーンさんは結婚しました。上の画像1枚目は結婚式の写真です。そのときにはミネソタ州で暮らしている長女・ケイトリン麗奈さんが産まれていました。その後、長男・コーディー洋一さん、次男・カーナー大二さんと3人の子宝に恵まれました。
クリスティーンさんから見た曙太郎さんは、どんな人だったのかな?
ピュアで可愛らしい一面があったみたいよ。
長女が中学生の時、曙さんが間違えてお風呂場に入り、娘の裸を見てしまったそうで「ママ!ママ!」「大変だ!ケイちゃんが成長しちゃってた!」ってお化けでも見たかのような顔で壁に張りついていたそうよ。
曙太郎は何の病気で闘病してた?
引用元:スポーツ報知
引用元:Youtubeめざまし8チャンネル
曙太郎さんは、2017年(当時47歳)に遠征先で急性心不全で病院に搬送されました。
前日に妻のクリスティーンさんへ「リングの上で苦しかった」「調子悪くて、ちょっとこれは病院に寄らないとダメかな」と電話で連絡があったそうです。その後、病院での治療中に37分間の心停止があり、ICUに入って治療を受けていました。
右蜂窩織炎(ほうかしきえん)、感染症も併発していたため、全身状態は良くない状態でした。奇跡的に一命はとりとめましたが、コミュニケーションが取れるようになったのは約半年後だったそうです。
蜂窩織炎(ほうかしきえん)とは
皮下脂肪組織へ侵入した細菌による感染症です。連鎖球菌やブドウ球菌というよくある細菌が傷や水虫の部位から侵入しておこるとされますが、経緯が不明なこともあります。感染症ではありますが、他のヒトに感染することはありません。通常、痛み、熱感を伴います。
引用元:国立長寿医療研究センター
当時の記憶は小学校3~4年生程度のレベルだったそうで、自力で車いすに乗り移ったり、立つことも難しい状態でした。移動は主にベッドごと行い、食事は一人で食べられず、介助が必要だったそうです。リハビリでは、車いすに乗って10mほどの距離を30秒程度かけて自分でこぐ練習や、特殊な歩行器を使った練習をしていました。
上の画像1枚目は2018年(当時49歳)、移動のためのベルトを着けている状態と思われます。2枚目は2019年(当時50歳)の曙さんです。お見舞いの方が来ると元気そうな表情で対応していたようです。
闘病中は記憶障害のため、時間が進んでいる認識があまりなく、自分の3人の子供が大きくなっていることを不思議に思ったり、次男のカーナーさんのことを自分の弟と勘違いしてしまうことがよくあったそうです。
曙太郎さんは、どうやって7年間闘病生活を頑張ってきたのかな?
「リングにもう一回上がりたい」という強い気持ちを常に持っていたみたいよ。実際は立つことは難しかったみたいだけど、その思いでリハビリを頑張っていたみたいね。
曙太郎のプロフィール・SNS
引用元:TBS NEWS DIG
プロフィール
- 名前:曙 太郎(あけぼの たろう)
- 出生名:チャド・ジョージ・ハヘオ・ローウェン
- 生年月日:1969年5月8日
- 年齢:享年54歳(2024年4月6日逝去)
- 出身地:アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島
- 身長:203㎝
- 体重:233kg
- 血液型:O型
- 趣味:音楽観賞、NBA観戦、ウクレレ、ゴルフ、バスケットボール、車
- 所属部屋:東関部屋
- 業務提携事務所:RUF
SNS
SNS
- 公式ブログ URL:https://ameblo.jp/akebono-64/
大相撲成績・プロレスタイトル歴
大相撲成績
- 通算成績:654勝232敗(181休)、勝率.738
- 幕内成績:566勝198敗(181休)、勝率.741
- 横綱成績:432勝122敗(166休)、勝率.780
- 幕内最高優勝回数:11回
プロレスタイトル歴
- プロレス大賞新人賞(2005年)、最優秀タッグチーム賞(2005年、2009年)
- DRAGON GATE第25代オープン・ザ・トライアングルゲート王座(2009年)
- 全日本プロレス第82・88代アジアタッグ王座(2009年、2012年)
- 全日本プロレス第57・69代世界タッグ王座(2010年、2015年)
- 全日本プロレス新春バトルロイヤル優勝(2010年、2015年)
- 全日本プロレス第47・52代三冠ヘビー級王座(2013年、2015年)
- 全日本プロレス王道トーナメント優勝(2013年)
- 全日本プロレスチャンピオン・カーニバル優勝(2015年)
- DDTプロレスリング第6代KO-D6人タッグ王座(2013年)
- プロレスリングZERO1風林火山優勝(2009年)
- プロレスリングZERO1第24・28・34代NWAインターコンチネンタルタッグ王座(2010年、2013年、2017年)
- プロレスリングZERO1第14代世界ヘビー級王座(2012年)
- プロレスリングZERO1第2代NWAプレミアムヘビー級王座(2012年)
曙太郎さんの好きな色って何なのかな?
緑色が好きだったみたいだね!
クリスティーンさんは曙さんの遺体に緑色のアロハシャツを着せてお別れしたそうよ。緑色のまわしを締めていたことがあったり、婚約会見の時の着物も緑色だったみたいね。