元プロ野球選手で現在は野球解説者、野球評論家、監督として活躍を続けている工藤公康さん。
日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持しており、 また、最高勝率もNPB最多タイ記録となる4回獲得するなど実働29年間にわたって活躍し、14度のリーグ優勝、11度の日本一に貢献しました。
今回は工藤公康さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】工藤公康は若い頃かわいい!
幼少期・10代(1963年~1983年)
引用元:NumberWeb
工藤公康さんは、1963年5月5日に3人兄弟の末っ子(出生当時)として愛知県名古屋市で生まれました。その後ご両親が離婚、父親の再婚を経て子ども5人の7人家族となったそうです。上の画像は幼少期の時のものです。左が長男、右が次男、真ん中が工藤公康さんです。目がぱっちりしていてかわいらしいですよね!
小学3年生から父親に野球を習い、キャッチボールでカーブの投げ方を教わったところドロップ気味に大きく変化したため、父親から「お前は投手をやったらいいかもしれない」と言われていました。
工藤さんは、小学4年生で高坂小の野球部に入部すると、翌年にはカーブを武器にエースとなります。そして小学6年生の時には中日新聞杯少年野球大会に4番打者(投手)として出場し、満塁本塁打を打ってチームを大会優勝に導きました。
その後は、バッティングセンターに通い詰め、フォームを研究するなど熱心に野球に打ち込みましたが、中学入学後はなぜかハンドボール部に入部したそうです。しかし、当時のハンドボール部の顧問が”工藤さんには野球のセンス”に注目し強制的に野球部へ転部をさせたのだとか。
転部後、すぐにエースとなった工藤公康さんは、全国大会には行けなかったものの、中学3年生で名古屋市大会の優勝投手になりました。
引用元:スポニチ
「野球で特待生として声がかかれば(高校に)行かせてやる。そうでなければ働け」
そう言われていたという工藤公康さんには4人の兄弟がいます。そのため家庭は経済的に貧しく、全員が進学できるほどの余裕はなかったそうです。
しかし、小学校・中学校と野球で好成績を残してきた工藤さんの元には地元・名古屋市の野球部名門校である名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校〈愛工大名電〉)や享栄高等学校などからのスカウトが多数寄せられ他のだとか。
熱心なスカウトを受け、工藤さんは名古屋電気高校に入学されます。その当時は、甲子園やプロ野球選手になるつもりはなかったそうですが、その実力は周りを圧倒し1年生の秋からエースとして背番号1番を着用し、3年生で県大会優勝までチームを押し上げました。
その後トラブルに見舞われながらも念願の甲子園出場を果たします。そんな工藤さんの甲子園デビュー戦は16奪三振を記録し、史上18人目となるノーヒットノーランを記録しました。工藤さんの活躍によりチームは勝利し、史上初のベスト4進出となりました。
上の画像は甲子園でノーヒットノーランを記録した時のものです。嬉しさが滲み出ており爽やかな笑顔が素敵ですよね!「きょうはカーブがよくキレていた。ウォーミングアップから調子がよかったし、自信を持ってマウンドを踏めた。でも、まさか…。初めての記録ですし、最高にうれしい」と語っていました。
引用元:スポニチ
工藤公康さんは1981年(当時18歳)、甲子園に出場したことで「屈指のサウスポー」と高い評価を得て、社会人野球チーム20数社、プロ球界のスカウトからもドラフト会議における目玉選手として注目されていました。
「ドラフトでは人気を集め、1位指名は確実。」と言われていた工藤さんは、セ・リーグ球団である巨人への入団を希望していましたが、ドラフト会議直前になって「プロ入り拒否」を宣言します。
一方で、ドラフト会議当日には、西武が6位で工藤さんを強行指名しました。工藤さんは強行指名されたことに驚きながらも、その意思はとても固く入団交渉には応じなかったそうです。しかし、西部の粘り強い交渉に12月28日に西武入団を表明して西武と契約されました。上の画像は西部入団会見の時のものです。
この時工藤公康さんは、「僕はドラフト6位でした。というか僕、社会人決まってたんですよ。当時の熊谷組になるんですけどね。決まっていたのにドラフトで指名された。」とお話しされていました。
工藤公康さんは、熊谷組が決まっていたのにどうして西武入団を決めたのかな?
それは、工藤さんの父親が当時の球団責任者だった根本陸夫さんのことをえらく気に入ったことが理由だそうよ!
根本さんと話した後「僕は夜中の3時に叩き起こされて父親から“お前プロ行け”と言われた」と話されていて、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつとされているよ!
20代(1983年〜1993年)
引用元:週刊ベースボール
工藤公康さんは、入団1年目の1982年(当時19歳)から監督の広岡達朗から「坊や」と可愛がられ、「マウンドでオドオドせず度胸がある。」と高い評価を受けていました。上の画像は西武に入団した時のものです。幼少期と変わらず可愛らしい笑顔が印象的ですね。
工藤さんは、新人ながら開幕一軍ベンチ入りを果たしますが、入団3年目の1984年(当時21歳)には、アメリカのマイナーリーグへ留学を勧められました。
「最初はワンポイントで使っていたのですが、ランナーを背負った厳しい場面でもビシッと抑えてくれました。それが、じゃあもう1イニングとなるとボコボコに打たれてしまう。まるで別の投手でした。ピンチを切り抜けた瞬間に緊張が切れてしまっていたのでしょう。このままではこの子は伸びない。より厳しい環境に放り込む必要がある、と考えました。」
引用元:Wikipedia
アメリカ留学を勧めた理由について当時の監督・広岡監督はそう語っていたそうです。
「強くなるためには個人のモチベーションが重要だとアメリカで痛感しました。」
工藤さんはアメリカで選手たちと過ごしたことで、日本との意識の違いに戸惑いながらも自分なりのトレーニングを考えるなど留学先で経験を積み、帰国後、主力投手となりました。
引用元:スポニチ
そんな工藤公康さんは、1985年1月5日(当時21歳)の自主トレーニング中に、肩を負傷してしまいます。それは、その後の選手生命にも関わるほど重症なもので、治療に専念する期間は1軍降格やワンポイント登板となるなど、厳しい時期もあったのだとか。
しかし、工藤さんは諦めることなく挑戦を続け、同年7月9日の対南海ホークス戦でプロ入り初の完投勝利を挙げると、3戦連続で完投勝利を記録し、最優秀防御率を獲得してパ・リーグ優勝に貢献しました。
その後も工藤さんは、1986年7月13日(当時23歳)の対近鉄戦をきっかけにどんどん調子を上げていき、完投数10を記録したり、日本一を獲得するなどの好成績を記録し、シリーズMVPに選ばれました。上の画像は1986年日本シリーズ第5戦・広島との延長12回裏でサヨナラ打を喜ぶ工藤さんと伊原春樹コーチです。
翌1987年(当時24歳)もその勢いはとどまることを知らず、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率とベストナインを獲得して、前年に続きMVPを受賞されました。さらには、24歳という異例の若さで正力松太郎賞を受賞するなど、左投手の代表格と言われました。
引用元:web Sportiva
1988年(当時25歳)3年連続2桁完投を記録しましたが、防御率は不調が続いていましたが、1991年(当時28歳)には調子を取り戻し、開幕から2完封を含む5試合連続完投勝利を飾り、最高勝率のタイトルを獲得しました。
広島との日本シリーズでも最後まで投げ切って胴上げ投手となり、工藤さんの黄金期と言われた1992年(当時29歳)には11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献しました。上の画像は1992年、1993年の西武を支えた工藤さんです。躍動感ある1枚ですね!
どうして不調が続いてしまったのかな?
それは、暴飲暴食が原因で、肝機能障害だったみたいだよ!
30代(1993年~2003年)
引用元:時事ドットコム
1993年(当時30歳)には、最優秀防御率、最高勝率、ベストナインのほか、自身初となるパ・リーグMVPを受賞しました。
翌年(当時31歳)も好成績を記録し続けた工藤さんでしたが、同年11月9日にFA権行使を表明し、西武を退団されます。その後工藤さんは、根本さんが球団社長、王貞治さんが監督に就任した福岡ダイエーホークスに移籍しました。
上の画像は1994年12月6日に入団発表で王貞治監督(左)からユニホームのボタンをかけてもらう工藤さんです。30代になっても若々しい印象ですね!
ちなみに、工藤さんの退団理由は、西部に対して老朽化した設備の改善を訴え続けたが、球団からは良い返事がもらえなかったことだったそうです。
引用元:週刊ベースボール
工藤公康さんは、1999年(当時36歳)福岡ダイエーホークスへの移籍後、初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれました。
「生涯最高の出来だった」
日本シリーズ・中日ドラゴンズとの試合でも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振をとり、完封となりました。自分の思い通りの投球ができた試合であったと、ご自身の著書でも明かしていました。工藤さんの活躍で勢いに乗ったダイエーホークスは日本一に輝き、工藤さんもシリーズ優秀選手に選ばれました。
「この1年間の努力が何だったのかと言う気持ちになりました。」
当時、ダイエーホークスの球団代表を務めていた高塚猛さんから「工藤君の登板の火曜日は一番客の入りが悪い」と言われたことに、球団への不信感を持ち、移籍を考え始めたという工藤公康さん。シーズンが終了後、読売ジャイアンツへの移籍が発表されました。上の画像は巨人への入団会見の時のものです。
工藤公康さんは西武でシーズン優秀選手に選ばれたのに、余韻も冷めやらぬうちにFA宣言をしたよね?ファンはびっくりしたんじゃないかな?
福岡ファンからは、工藤さんの残留を願う17万3000人もの署名が集まったみたいだよ!
それを受けて工藤さんは移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送ったんだって!
40代以上(2003年~)
引用元:週刊ベースボール
読売ジャイアンツに移籍1年目の2000年はシーズン終盤には、右ふくらはぎを痛めていましたが、復帰後、リーグ優勝に貢献し、ジャイアンツを2度目の日本一に導きました。工藤さん自身は最優秀投手賞を獲得されます。
また、2004年(当時41歳)に行われたヤクルト戦の勝利で、200勝という当時の史上最年長記録を樹立しました。上の画像は41歳3カ月で200勝に到達した工藤さん。さらに、工藤さんの活躍は続き、好成績を記録し続けます。2006年(当時43歳)にはプロ野球の歴史上、最長の現役左手投手となりました。
その後、横浜ベイスターズに移籍した工藤公康さんは、史上初の全13球団から勝ち星を挙げた投手となり好成績を残したものの、球団からは”チームの若返り”を理由に、シーズン終了をもって自由契約とする戦力外通告を受けました。移籍先は「国内しか考えていない」と話し、まだまだ現役として活動することを発表されました。
2009年11月14日(当時46歳)には古巣である西武への移籍が発表されましたが、思うような記録を残せず、同年9月27日には、またも球団から戦力外通告を受け、10月には退団されます。
固い現役続行の意思とは裏腹に、肩の故障による影響は大きく、工藤さんは2011年12月9日(当時48歳)、ご自身のブログで現役引退を発表されました。
引用元:中日スポーツ
2015年(当時52歳)工藤公康さんは福岡ソフトバンクホークスの監督に就任します。
1年目から3シーズンで完全優勝し、2017年には日本一に輝きました。その後も2回のリーグ優勝と4回の日本一を経験されました。
2019年(当時56歳)シーズン終了後には2021年(当時58歳)までの契約延長が発表され、日本プロ野球新記録となる月間22勝を達成するなど、チームに貢献してきました。上の画像はリーグ優勝した時に優勝トロフィーを受け取る工藤監督です。
工藤さんは監督としても、ホークス球団史上歴代3位の勝利数を保持しており、これは鶴岡一人さん、王貞治さんに続く記録となっています。そして2021年10月に行われた最終戦をもって監督退任となりました。
工藤公康さんは監督としても大活躍だったのにどうして辞めちゃったのかな?
それは、「結果が悪ければ、その責任を負うのは監督である。」と話していて、思うような成績が残せなかったことで監督として「責任を取ることが何よりも大事だ」と決断したみたい!
【画像】工藤公康と嫁の馴れ初めは?現在は息子と農業してる?
工藤公康と嫁の馴れ初めは?
引用元:Number
引用元:Amazon
工藤公康さんと妻・雅子さんは清原和博さんからの紹介で出会ったそうです。よく飲みにいくだったという清原さんと工藤さん。清原さんの紹介を受けて知り合い、交際に発展したそうです。
ですが、当時、毎晩のように飲み歩く不摂生な生活を送っていた工藤さんは26〜27歳の頃、健康診断で肝機能障だと診断され、お医者さんに『あなた、このままの生活をしていたら死にますよ』と告げられていました。
「今年か来年でひょっとしたらクビになるかもしれない。もしクビになったら、田舎に住んで、週末は子どもたちに野球を教える生活をしたい……」
余命宣告に近い診断を受けて、焦った工藤さんは雅子さんと家庭を築く決心をされ、プロポーズしたそうです。
雅子さんからは「野球を辞めて、今のような不摂生をしなくなるなら、それの方がよっぽど良い」と返事をもらい、お2人は1989年、工藤さん当時26歳にご結婚されました。
工藤公康さんは、どうして肝臓の数値が悪かったのかな?
原因は、1日でボトル1本を飲み干してしまうくらいお酒を飲んでいたことみたい!
工藤公康は現在息子と農業してる?
引用元:西スポWEB
引用元:Instagram
工藤公康さんは現在(2025年1月時点)、山梨県北杜市と熊本県南阿蘇村で農業をおこなっています。
俳優として活躍している長男・阿須加さんとは別にご自身の畑を持っているようです。上の写真1枚目はさつまいもを収穫してい流ところです。
手や衣服に土がつきながらも視線は農作物に集中し、夢中で楽しんでいるように見えますね。「去年よりいい感じでできたかな」と話しており、さつまいもの他にもレタス、白菜、キャベツ、ケールなどさまざまな野菜を育てているそうです。
工藤公康さんはどうして農業を始めたのかな?
きっかけは長男・阿須加さんが農業をはじめて、休日に手伝っていたらその面白さに魅了されて始めたみたいだよ!
工藤公康さんがデビューした1982年はこんな年だった!
引用元:森永ミュージアム、文春オンライン、日本銀行ホームページ
工藤公康さんがプロデビューした1982年は、「おっとっとがヒット」、「笑っていいとも!放送開始」、「500円硬貨発行」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語(大賞)は、「ネクラ」でタモリさんが受賞しました。
工藤公康のプロフィール・SNS
引用元:工藤公康official
プロフィール
- 名前:工藤 公康 (くどう きみやす)
- 生年月日:1963年5月5日
- 年齢:61歳(2025年1月現在)
- 出身地:愛知県名古屋市
- 血液型:O型
- 趣味:DIY、農業
- 特技:美しい投球フォームと、最速149km/hのストレートとカーブのコンビネーション
- 事務所:無所属
SNS
- Instagram URL:https://www.instagram.com/kimiyasukudo_official/
- オフィシャルサイト URL:https://find-kimiyasu.jp/profile/
工藤公康さんはいろんな活動をおこなっているよね?
そうだね!
野球解説者や野球評論家、筑波大学大学院博士課程でスポーツ医学博士の取得を目指し、研究や検診活動、趣味の農業やDIYとさまざまな活動を行っているよ!「受け継がれてきた知恵や⽂化、考え⽅をこれからも⼤切にし、未来に引き継いでいくために、様々な形で活動をしていきたい」と話していたよ!