俳優、声優、番組のナレーションなどで活躍を続けている寺田農さん。
親しい監督の作品の常連になり、数えきれないほどの映画やドラマに出演してきました。
今回は寺田農さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】寺田農は若い頃イケメン!
幼少期~20代(1942年~1972年)
引用元:住友不動産販売
寺田農さんは、洋画家の寺田政明さんの長男として生を受けられました。名前の「農(みのり)」は、古代中国の漢詩が彫られている石碑からお父さんが一文字を用い、命名されました。
5歳の時、板橋区ときわ台に住まいが建てられます。家畜として、ヤギ、うさぎ、鶏などをたくさん飼われていたそうです。寺田さんは、ヤギの乳しぼりのお手伝いをされていました。
その頃の遊びのひとつに絵を描き始め、小学2年生の時に描いたカレイの絵が文部大臣賞を受賞されます。3年生になると、サッカーや音楽のカントリー&ウエスタンに興味が移ります。そして中高生の頃は、サッカー部の主将を務めました。
また高校1年の時、お父さんの挿絵のお仕事のため、自宅に新聞記者や作家が訪問していた影響もあり、なりたい職業が新聞記者と言う夢をもった寺田農さん。記者になるため、早稲田大学第二政治経済学部を受験され、見事合格しましました。
そして大学入学前の1961年18歳の時、友人に誘われ、文学座の研究生オーディションを受けることとなります。
「友だちが『文学座というところが研究生を募集しているから受けよう』と。それで、大学の合格発表が終わった後だし、冷やかしでついて行ったら、よくある話で受けようと言った友だちは落ちて僕が受かったんですよ」
同年、文学座附属研究所第一期生として入所され、同期に樹木希林さん、橋爪功さんなど豪華な方々と同じ船に乗ることになりました。一年後に文学座の劇団に入団できたことから、お芝居が忙しくなり、早稲田大学を二年生で中退されます。
引用元:映画ナタリー、Amazon
1968年10月26歳の時、映画「肉弾」に出演されました。この作品は岡本喜八監督の戦争体験を礎に製作されました。寺田さんは21歳の幹部候補生に扮し、人間魚雷として敵に向かって突撃する役柄です。上の画像はドラム缶と魚雷を結び付け、太平洋に漂っている場面です。この映画にて毎日映画コンクール男優主演賞を受賞されます。
「やっぱりすごいなあと思うのは、当時は岡本さんを含めてスタッフのメインは戦争経験者なんですよ。だから、たとえば僕がゲートルを巻いてというのがわからないと、そういうスタッフが小道具さんだけじゃなくて、みんながどうやるのか知っているんですよ」
引用元:週刊女性プライム、テレ朝POST
スタッフに戦争経験者が多いので、演出も本格的ですよね。寺田さんが3歳の時に終戦を迎えたので、主人公をかみ砕いて理解するのは難しかったとのことです。ドラム缶に入り、海に浮かぶなんて怖いですね。体当たりの演技ですよね!
引用元:X国宝級の名優・寺田農さん。東宝DVD岡本喜八監督作品「赤毛」のライナーノーツ聞き手担当したとき初めてお会いしました。主演賞総ナメの「肉弾」よりも「赤毛」のキネ旬助演賞候補のときの方が嬉しかった、「助演賞というのは腕があるって事なんだよね」とのお言葉が印象的でした。寺田さん、永遠に✨ pic.twitter.com/mBCwmRSxgq
— 佐藤闘介「地球の長いお別れ The Longest Goodbye」 (@makotosuke0708) March 23, 2024
1969年10月27歳の時、岡本喜八監督製作の映画「赤毛」に出演されました。寺田さんは盗人の三次役です。「肉弾」に続き、岡本監督の作品にて注目されるようになり、オファーが舞い込むようになります。
役柄は、江戸に向かう赤報隊士の権蔵が、隊長の目印である赤毛を借り、十年ぶりに帰省する際、沢渡宿で悪代官とヤクザ一家に支配され、悪政に苦しむ光景を見るところから始まります。権三は、代官屋敷から年貢米と連行された娘たちを取り戻し、村人から尊敬されているという設定です。
「スリの扮装が素足にわらじでさ。寒いし、痛いから、映るときだけ履きゃいいだろってふてくされてふんぞり返っていたら、‘‘そう言わないで、ハイ、履く!‘‘って、誰かがオレにわらじを履かせてくれるんだよ。で、見たら三船さん(笑)。世界のミフネにわらじを履かせてもらった男ってんで、みんなに怒られた」
引用元:週刊女性PRIME
撮影は冬の屋外に建てられたセットで行われたため、気候の影響を直接感じて大変だったそうですね。上の画像はその時のものです。三船敏郎さんの勢いにより寺田さんはわらじを履かれ、撮影がスムーズに進んだことでしょう。
「肉弾」では岡本監督の指示どおりにお芝居をされたそうですが、この作品では初めて自身で演じ方を考えたとのことです。三船敏郎さんとの共演もすごいですが、脇役でも名演技をされていらっしゃることですよね!
寺田農さんは、どうして脇役が多いのだったかな?
それは、主役は設定からキャラクターまで周りが全部セッティングしてくれるけど、脇はそうはいかないという理由から、作中で花を咲かせるのが脇の醍醐味になったみたいよ!
30代(1972年~1982年)
引用元:XBS松竹東急で再放送『大江戸捜査網』
— あさみめぐる (@asami_meguru) June 16, 2022
本日第60話のゲストに寺田農さん。
ムスカ!ムスカじゃないか!!
#大江戸捜査網 #BS松竹東急 pic.twitter.com/h6HXoicVMv
1972年「大江戸捜査網」60話にゲスト出演されたの時のものです。寺田さんは、診療所に勤める木原医師役です。
一見優しい正義の味方に見えますが、実は子どもを誘拐する犯人の一人でもあるそうです。上の画像はその時のものです。表情にちょっぴり影を感じますが、趣きのある演技が光っています!
引用元:THE ミイラ オフィシャルホームページ
1980年代から、芸能人のサッカーチーム「ザ・ミイラ」に所属されていました。大のサッカーファンである、漫画家の望月三起也さんが代表・監督を務められています。上の画像はメンバーで集合されている場面です。寺田さんのポジションは、フォワードだったそうです。
チームメイトでもあり、一緒にプレーをされた明石家さんまさんは
「俺は同じサッカーチームでやらせていただいて、いろいろおしゃべりとかさせていただいてたんですけど、俺は憧れの顔で。ものすごい男前のイメージ」
と振り返ります。寺田さんは「年でね、動けないんだよ」とよくおっしゃっていたそうです。ユニフォーム姿を見ると、若々しく、スポーツマンそのものですよね!
引用元:MOVIE WALKER
上の画像は1981年12月39歳の時、相米慎二監督製作の映画「セーラー服と機関銃」に出演された場面です。赤川次郎さんが薬師丸ひろ子さんを主人公と設定し、執筆された作品と言われています。寺田さんは、体型が太めの萩原役です。
女子高生・星泉は思いがけず、ヤクザの目高組組長になります。マシンガンを片手に、麻薬事件に巻き込まれた組を救うため立ち上がることになります。
寺田さんのお話によると、相米監督の方針は、俳優さん自身に演技を考えさせるため「はい、バツ」しか言われないそうです。監督からの指示がなく、多くの女優さんが生みの苦しみを味わいました。薬師丸さんは「死ね!相米」と絶叫されたとのことです。相米監督は、撮り方にこだわりの強い方ですよね!
寺田農さんは、どうしてサッカー好きだったのかな?
それは、小学3年生の頃からサッカーを始めて、中学、高校、大学でも続けられたという理由から、ジェフユナイテッド市原・千葉の大ファンとしても応援されたり、発信されたりしたみたいよ!
40代(1982年~1992年)
引用元:X、X【追悼 俳優・寺田農さん死去】#NHKアーカイブス では寺田さんが出演した1985年度放送の「連続テレビ小説 澪つくし」の動画の一部を公開しています。https://t.co/onDuT2c1w9#寺田農 pic.twitter.com/koZ73ol2kx
— NHKアーカイブス (@nhk_archives) March 23, 2024【相米慎二 ラブホテル ロケ地巡り1】この作品で最も印象深い村木(寺田農)のアパートへの階段。当時の階段は今はなく横に新たなものが作られている。階段のフェンス右側がかつての階段があったところ。よく見ると階段があった形跡は残っている。 pic.twitter.com/KdPDF9gHSC
— Gayapii (@Gayapii) January 25, 2014
1985年4月~10月43歳の時、NHK朝の連続テレビ小説「澪つくし」に出演の時のものです。ジェームス三木さんにより、当時の流行に逆らい「日本製ロミオとジュリエット」の脚本を執筆されました。
醬油屋の女子生徒かをると若い漁師惣吉が、困難の末に結婚する物語です。寺田さんは沢口靖子さん扮するヒロインの叔父、古川清次役です。上の画像はその時のものです。穏やかな叔父さんの顔をされていますよね!
同年8月、相米慎二監督の映画「ラブホテル」にて主演されました。石井隆さんによる「土屋名美」という女性が主人公の「天使のはらわた」シリーズの一作です。この映画で、ヨコハマ映画祭主演男優賞を受賞します。
村木は多額の借金を抱え人生に失望した後、ラブホテルで名美というホテトル嬢に出会います。彼女を道連れに心中するつもりだったが、強引に迫るちに気持ちが冷め、ホテルを後にします。ニ年後、タクシードライバーの職に就いた村木が名美と再会するという物語です。2つ目の画像は、村木の住むアパートへ続く階段での場面です。
「ヒロインの名美がどんな過去を持っているかなどを話し合った。でも30分もすると酒を買いに行く」12日間の短い撮影期間だったそうですが、お酒の力も借りながらリハーサルをされたようですね。自転車を抱えて階段を降りるのは男性でも大変ですよね!
引用元:文春オンライン
1986年8月44歳の時、スタジオジブリの宮崎駿監督による長編アニメーション映画「天空の城ラピュタ」に声優として出演されました。宮崎監督が小学生の時に思い描かれた物語が骨組みとなっている、オリジナルの冒険物語です。上の画像は寺田さんが声を務められている、ムスカ大佐登場の場面です。
アニメーションの絵が未完成の状態で声の収録に臨む場面もあり、時計で時間を計りながら声を吹き込まれたとのことです。
「『線画』もなくただタイムラップだけで、『15秒でこのセリフを言ってください』という感じだったから、『そんなのできねえよ』って話になってさ、もう帰っちゃおうかなっていうくらい、すごくイヤだったんですよ」
と言う経験もした寺田さん。それにしてもムスカ大佐と寺田さんの顔だちや眼鏡の色までそっくりです。イケメンの特徴というべきなのでしょうか。
寺田農さんは、どうしてムスカ大佐役がトラウマだったのかな?
それは、線画もない状況でのアフレコだから宮崎駿監督と衝突したという理由から、トラウマになったみたいよ!演技をイメージするのが難しかったのかもしれないわね。娘さんのDVDを借りてセリフを復習し、セリフを3つくらい言えるようになり、克服できたみたいね。
50代以上(1992年~)
寺田農さんはとても洒落ていてカッコよくて、そして優しい方。ウルトラマンマックス『狙われない街』で演じたくださったメトロン星人は素敵でしたし拙著『実相寺昭雄の冒険』でも楽しくたくさん語って下さりました。お世話になりました。ありがとうございました。寂しいです。ご冥福をお祈りします。 https://t.co/UdqmyTtBkr pic.twitter.com/pt2duBo5fc
— Takeshi Yagi ・八木毅 (@reima7x) March 23, 2024
1997年から、実相寺昭雄監督が手がけている「ウルトラマンシリーズ」に出演されました。上の画像は2005年「ウルトラマンマックス」24話「狙われない街」のメトロン星人に変身の場面です。
寺田さん扮する男性が「ふぅー、おいちぃ。ふうー」と、おいしそうに眼兎龍(メトロン)茶を飲むと、姿がメトロン星人へと変わります。
「人間は便利なツールを手に入れ、どんどん退化し始めたからさ。放っておいても滅びるよ。新しい道具で人間の脳は委縮し始めている」
とメトロン星人は言います。その後巨大化し、夕暮れの北川町にてウルトラマンマックスと対決します。演技がお茶目な上に、メトロン星人そのものですよね!
引用元:東海大学ホームページ
2008年から5年間、東海大学文芸創価学科の特任教授を務められました。「映画史入門」や「演劇入門」、「現代映画論」、「戯曲・シナリオ論」の授業を担当されます。特に「演劇入門」の授業は生徒で教室がいっぱいになるほどの人気ぶりだったそうです。
上の画像は、東海大学で映画「肉弾」のトークショー・上映会を開催された時のものです。会場に学生さんがいっぱい詰めかけていますよね。授業中、生徒さんからムスカ大佐のセリフを頼まれたこともあったそうです。
「『ムスカ、ムスカ、ムスカやってくれ』って言うから『君たちの成績がよかったらやりましょう』と言って、成績がよかったからやったの。僕はまったく覚えてなかったから、『何て言うの?』て聞いて『人がゴミのようだ』、『目が目が…』ってやったらさ、『全然似てない』って言うんだよ。本人がやっているのにさ(笑)」
引用元:テレ朝POST
ラピュタとは長く距離を置いていたため、出演された当時の感覚を忘れてしまい、大学では「似ていない」と言われることが多かったとのことです。大学の先生になられるとは、これまでの経歴や読書家の面も発揮されていますよね!
引用元:映画ナタリー
2021年11月79歳の時、映画「信虎」に出演されました。1985年の「ラブホテル」以来、36年ぶりに映画の主役として武田信玄の父、信虎を演じています。
戦国時代、信虎は信玄から甲斐の国を追放され、京で足利氏に奉仕し、信玄の上洛を待ちましたが、余命が少ないことを知る設定でした。信玄に会うため甲斐への道中、孫・勝頼と後継争いに発展、80歳の信虎が織田信長との勝負に焦る勝頼を止めるかどうかが注目された映画でもありました。
出演依頼を受けた時「長生きするもんだね」とご機嫌で話されたそうです。金子修介監督が寺田さんの不良っぽさに惹かれ、説得されたとのことです。堂々と信虎を演じられ、まさに大役ですよね!
引用元:スポーツ報知
2024年3月81歳時、肺がんで亡くなりました。20代前半の2~3年ほど、寺田さんの付き人を務められた椎名桔平さんが別れを惜しみながら、過ごした日々を思い返されています。椎名さんは21歳の時に、先輩が営む居酒屋で寺田さんと知り合われたそうです。この件がきっかけとなり、役者を志望するようになります。
「『師匠なんて呼ばないでくれ、普通でいいからな』と言われ、主催されていたサッカーチーム、「インポシブルドリーム」にも参加させてもらいました。
引用元:スポーツ報知
『付き人は2年以上やる時代じゃないから、あとは一人で頑張りなさい』と言って沢木耕太郎や関川夏央の本をくださいました。
「師匠らしいことは特に何もしていない」と椎名さんに対して語られています。しかし、寺田さんは撮影現場に行くと、お付き合いのある監督に椎名さんを紹介し、脇役での採用をお願いするなど、面倒をみていらっしゃったそうです。今でこそ大スターでいらっしゃいますが、下積みの大変な時期もありますよね。
寺田農さんは、どうして長い間俳優を続けられたのだったかな?
それは、自分の知らない世界に一度は首を突っ込んでみたい性格から、好奇心で続いたみたいよ!
寺田農さんが所属する”CESエンタテインメント”には他に誰が所属してる?
引用元:上:CESエンタテインメント、中:CESエンタテインメント、下:CESエンタテインメント
寺田農さんの所属するCESエンタテインメントには、大迫一平さん、今村美乃さんや駒塚由衣さんなどが所属しています。
【画像】寺田農と寺田心は親戚?再婚した嫁との馴れ初めは?
寺田農と寺田心は親戚?
引用元:ORICON NEWS、X寺田心くん(10歳)vs寺田農くん(76歳) pic.twitter.com/jIOmGCZWnX
— ちゃ◯きー@難波幻想郷の本多忠勝 (@Mirumaji_manji) December 6, 2018
引用元:スポニチAnnex
寺田農さんと寺田心さんは親戚ではないようです。
姓が同じ、下の名前が漢字一文字・ひびきが三文字で似ているなど、お二人に共通点が見られるので、寺田農さんが寺田心さんのおじいさん?あるいは親戚の方?…と思われるかもしれません。
寺田心さんは、愛知県出身、2011年から芸能活動を開始されました。2015年10月7歳の時に、「5→9~(5時から9時まで)私に恋したお坊さん~」に小さなお坊さん役で出演されています。また、2018年12月にバラエティ番組「くりぃむクイズ ミラクル9」で寺田さんと共演されています。お二人に笑顔も見られますね!
将来の夢は、お母さんやおばあさんに料理を作りたいという気持ちから、俳優活動を続けながら料理人になることだそうです。お父さんは、バラエティ番組で話された内容によると、いらっしゃらないそうです。
お二人は親戚ではないようですが、番組での共演があったことで近い関係と思われた方も多かったのでしょう。
寺田心さんのプロフィールは以下の通りとなります!
- 寺田心(てらだこころ)
- 生年月日:2008年6月10日
- 年齢:16歳(2025年1月現在)
- 出身地:愛知県
- 血液型:AB型
- 事務所:ジョビィキッズプロダクション
寺田心さんは、どうして芸能界に入ったのだったかな?
それは、お芝居が上手で、僕もあんなふうになりたいなという理由から、スチール撮影のポーズを教えてもらったり、芦田愛菜お姉ちゃんが憧れと目標になったりしたみたいよ!
寺田農と再婚した嫁の馴れ初めは?
引用元:エルザ by ORICON NEWS
引用元:スポニチAnnex
2011年5月、寺田さんより、35歳年下の一般女性との再婚がわかりました。
奥様との出会いはわかっていませんが、美術関係の活動をされている方と言われています。寺田さんのお父さんが洋画家でしたので、何か関連があるのかもしれませんね。そして、京都生まれの方ということも判明しています。
「(2011年当時)今はマンションを借りて妻と二人で暮らしています。夫婦二人暮らしのため家事ももちろんやります。掃除と洗濯、食器洗いが好きですね。お風呂掃除やら換気扇の掃除やら、何でもやりますよ(笑)」
自分から家事を率先してされている様子が伝わってきますよね。初めは、1970年に元女優の高橋紀子さんと結婚、2006年に離婚されています。
それは、縁あってという理由から、再婚になったみたいよ!詳しくは寺田さんから語られていないみたい。美術品を見るのも好きということもヒントになるかもしれないわ。年の離れた女性から見ても、魅力的な方なのね!
寺田農さんがデビューした1961年はこんな年だった!
引用元:貝塚市役所ホームページ、NHK公式サイト、楽天市場
寺田農さんがデビューした1961は、「日紡貝塚女子バレーボールチーム『東洋の魔女』と呼ばれる」、「NHK朝の連続テレビ小説の放送始まる」、「坂本九さん『上を向いて歩こう』が大ヒット」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語は、堺屋太一さんの「巨人・大鵬・卵焼き」が流行しました。子どもを含めた、多くの人の好きなものを象徴する言葉として、当時親しまれました。
寺田農のプロフィール・SNS
引用元:読売新聞オンライン
プロフィール
- 名前:寺田農(てらだみのり)
- 本名:寺田農
- 生年月日:1942年11月7日
- 年齢:81歳(2025年1月現在)
- 出身地:東京都
- 血液型:B型
- 趣味:読書、サッカー
- 特技:人脈を築くこと、家事
- 所属事務所:CESエンタテインメント
SNS・著書・監督作品
- 監督作品
- マイ・ブルー・ヘヴン わたし調教されました(1992年、エクセス)
- 実相寺昭雄の不思議館4 (1992年、バンダイビジュアル)
- 実相寺昭雄のミステリーファイル3(1997年、エアフィールド)
- 著書
- 「寺田農のみのりのナイ話」(淡交社、1996年1月15日)
- 「寺田農・ノウ・ガキ」 (風塵社、1996年3月)
寺田農さんの読書のきっかけって何なのかな?
芥川龍之介さんの長男で、文学座の演出家でもある芥川比呂志さんから、「本を読め。本をいかに読むことがいかに大事か」と言われ、読書を大切にされているみたい。飽き性だから、同時に数冊読まれるみたいだね!